南濱墓地 墓石調査 Cブロック

まずは配置図を作成しました。

   各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
   青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。



   この列は短い上に、今も祀られている墓が多いのです。(手前の枠石のある墓)


   フェンスと墓との間には通路がないのでフェンス越しにしか読めません。
   墓石が昔から2列に並んでいたのですが、駐車場部分の土地を売払った時に墓の向きをそのままにしたのです。
   どうせ無縁墓だから・・・ そんな気持ちが見て取れます。
   右から
C-12 この墓は慶応2年4月(1866)とあります。明治まであと2年。この頃には幕藩体制は崩壊しています。
   正面  4人の名が並びます。 道寛・尼妙氏・了念・教證
   右側面 先祖代々  清●院●道日照
                妙春日●信女
   台座  播磨屋

C-13 正面  ●●●●
   右側面 光中浄信
        同生妙信     少し変わった戒名です。
   左側面 間瀬登●長●正方下野宇知宮●●文
       政十一年戌子七月九日終享年六十
              哀子雄之助●謹建        文政11年(1828)に建立されました
                                  下野宇都宮のことか一ノ宮か不明。
   裏面  釈温室貞潤大姉
        弘化二乙●●(1845) 七月九日       墓が建てられてから17年後に刻まれています。
   前列右から
        台座石        竿石正面   側面          裏面
C-1    小嶋屋 五郎兵衛   道海・妙誓  教西・智信      天保9年(1838)
C-2    小嶋屋        智清・宗●  了信・妙慶  剥落 
C-3    小嶋屋        宗●・妙●  剥落     浄信  先祖●●家精霊●
C-4    ???        安清・●清
   そうです、この並びは小嶋屋一族の墓なのです。
   プラスチックの花立てがありますが、多分隣の新しい墓の持ち主がついでに立てたのでしょう。
   「大坂 小嶋屋 五郎兵衛」で検索するとありました。 慶応大学所蔵の古文書に。
      船町に小嶋屋という両替商があったのです。筑後柳川藩・長州藩・津和野藩との取引がありました。
      残念ながら小嶋屋五郎兵衛の文書はみつかりませんでした。       この両替商が南濱の墓の持ち主かどうかは全く不明です。なにも遠い南濱でなくてよいから。


C-17   台座正面には 上中之島商
              大和屋 市兵衛br>      台座左側面  山崎家
     竿石正面   教圓 妙圓      多分夫婦なのでしょう。
       左側面   釈静照
             天明四甲辰七月建   教圓・妙圓の墓として建てられた年です。静照・利生はその後のものです。
              釈利生
     江戸時代の中之島は各藩の蔵屋敷が並ぶ土地で、小さな商人が店を出す場所ではなかったハズ。
     元禄4年の地図には上中之島の最も上流端に「山崎勘解由」、天保8年の地図には「山崎」の名があります。
     蔵屋敷は明治になってすべて政府に没収されるので以後の地図には出てきません。
     この山崎とは備中成羽藩の山崎氏のことで、天明年間の商人とはまったく違います。
     ですが、大和屋は上中之島の蔵屋敷に出入りを許されていた商人と考えてよさそうです。
     その商人のプライドが「上中之島商」に表れています。
     北新地には心中天網島にでてくる大和屋がありましたが、それは商人ではありません。
     明治になって蔵屋敷がなくなり、大和屋は商売が傾いたのでしょう。
     北堀江の地蔵調査において偶然出会った泉佐野の唐金屋・食家の没落もスケールは違いますが
     武家の没落と運命を共にしてしまったのです。商売人としては失格でした。


   この列の墓がフェンスを向いているのがわかります。
   駐車していなければ、墓の正面に近づくことができます。